2024年04月13日

いつかは、誰もが霊界に行かなければならない 解説も、検証もし尽くせない神 《李相軒先生の霊界メッセージ》



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李相軒(イ・サンホン)先生
霊界メッセージ。
今回は、「遍在される全知全能なる神様」です。

遍在される全知全能なる神様

いくら人間の知性が発達して科学や文明が進歩しても、
神様は決して人間の研究対象にはなりえません。

それは天地万物の創造主が神様であり、
すべての科学や宗教や哲学の主人は神様であるからです。
そんな人間が、どうやって
神様を研究したり分析したりできるでしょうか。

私は粛然とした謙虚な姿勢で、
「神様、私はもう降参です!」と告白したいのです。
これが最も賢明な判断だと思います。
これは私の率直な告白でもあります。

心をどんなに無にしてみても、
私の心の片隅に消えずに残っているものがありました。
それがほかでもない神様の存在でした。

私は、そんな神様の姿を
完全に明らかにしてみたかったのです。


しかし、ここ霊界に来て、神様の姿を
様々な次元から見つめてみたところ、
それが難しいということをさらに悟るようになりました。

神様の姿は様々で、多様に、膨大に現れるため、
神様の分析をどこから始めたら正しく究明できるのか、
その方法自体が全く思い浮かびません。

実際、人間の理性をもってしては
究明できないお方が神様なのです。

それゆえ、私は率直に告白します。
「おお、我が神よ、あなたはやはり創造主であり、
唯一無二なる神様であられます!
そしてあなたは人間の分析の対象では決してありません」。

私はこのように確固として動かぬ結論を下しました。


そして私は、今や心に訳もなく湧いてくる
神様に関するすべての疑問を完全に捨てることに決めました。

それは一種の時間の浪費にすぎないし、
また一方では、神様の前に大変な親不孝になると思います。

「私は唯一無二なる天の父母の子女である」
と確信を持って言えるならば、
それこそ私の最大の幸福であり、私は
その事実に対して心の底から感謝するばかりです。

私たちはみな「神様の真の子女」
であることを誇るべきです。

そして、誰かが神様の前に何らかの形容詞をつけて
神様を説明しようものなら、その者は
自分の無知さを自ら立証する結果を招くことになるのです。


最先端の科学と文明の前でも、私ははっきりと明言できます。
人間は自らの知性や知恵、その偉大な業績や学問、
文化などといったものを神様の前に
少しも誇ってはならないのです。

もしも自慢する者があれば、親なる神様は
彼を上から見下ろしてにっこりと笑い、
「苦労しているね。私が助けてあげよう」
と言いながら、かえって慰めてくださることでしょう。


私たちは神様の前に、自らの心も体も
すべて無にしなければなりません。

親なる神様の前に丁重にひざまずき、
私たち人間の驕慢(きょうまん)性に対して
手を合わせて謝罪すべきです。

「神様! 私はここにいます。
私の行く道を導いてください。
私の人生のすべてを神様にゆだねて正しい道を歩みます。
神様の子女として私を受け入れてください」と言いながら、
天の父母に率直に懇願しなければなりません。


いつかは、誰もが例外なく
この霊界に来なければならないのです。

こちらで神様の前に常に堂々たる姿で生活できる、
真の子女の位相を身につけたかどうかを
毎日毎日点検していきましょう。

地上生活に終わりを告げる道は、
人生のたそがれに迎えるものとは限りません。
皆さんが全く予期も準備もしないうちに、
こちらに突然来るという場合もあるのです。

ここを避けて通れる人は一人もいません。
天理原則をどうして避けていくことができるでしょうか。

若い全盛期の人生を好き勝手に生きながら、
人生のたそがれを迎えてから霊界の生活を
準備すればよい、と考えてはいけません。

私たちの父母である神様は、自らの子女を迎えるとき、
必ずしもその人のたそがれの時期に
召していかれるとは限らないのです。


もしも父母を迎えたならば、すぐさま
父母にお仕えすることが私たち子女の道理であり、
規範ではないでしょうか。

私たちはみな、神様が自らの父母であることを
誇りに思い、これからは私たちの父母なる神様が
少しも孤独を感じることがないようにお仕えしましょう!

私たちは「原理」を通して復帰原理を学んだはずです。
私たちは、それを私たちの現実生活に適用して
真の父母様に侍(はべ)り、常に喜びながら
幸福な生を営んでいけるように精進していきましょう。

(1999年11月29日)

李相軒(1914〜1997)(光言社刊
『霊界の実相と地上生活』【霊界の様相編】より)
第二部 天上天下の救世主・真の父母
第一章 神様の実存
三 遍在される全知全能なる神様
霊界の実相と地上生活(39)
遍在される全知全能なる神様
Blessed Lifeより

再編集 文責:ten1ko2


李相軒先生が神様を証ししたい思い、
神様に感謝する心情が十分に伝わってきますね。

愛の根であり、私たちの父母である神様。。。
あなたの存在に感謝して、
今日も一日過ごしていきたいと思います。




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2024年04月12日

メロディーは音楽の顔、歌詞は説教、歌は人の心に入る乗り物 《音楽で世界を救う:孝進様の人生》



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▲文孝進様のコンサート(2005年3月21日、大阪)


先月、聖和16周年を迎えられた文孝進(ムン・ヒョウヂン)様。
音楽を通して孝進様に侍った日本人男性(36万双)の証し
「真の父母様の解放のために
身もだえされた生涯」より続編です。

音楽で世界の個人主義に闘いを挑まれた

自己犠牲の精神を音楽に込めて

孝進様は、「メロディーは音楽の顔だ」と常々おっしゃり、
メロディーをとても重視していらっしゃいました。

メロディーの違いによって、人はこの曲、
あの曲と判断することができるというのです。

また、人の心を変えることができるのは歌詞であり、
「歌詞は説教だ」とおっしゃいました。

さらに、「歌というのは乗り物だ」
というお言葉もあります。

世界にはいろいろな人種があり、
文化がありますが、その人たちの
心の中に入り込むための乗り物が音楽であると。

そしてその中に善なるメッセージを入れることで、
人の心を変えることができるというのです。

この言葉は、孝進様の音楽観を知る
貴重な材料になると思います。

 
孝進様ご自身がお作りになった音楽は、
16枚のアルバムにまとめられています。
あのアルバムは孝進様の心の軌跡だと思います。

ヘビーメタルもあれば、美しいバラードもあります。
心を打つ名曲も数多くありますが、
一方で、とても楽しんでは聞けない曲もあるのです。

つまり、決して「孝進様の音楽イコール
完成された美しい音楽」ではないということです。

この世の中に完成された美しい音楽はいくらでもあります。
重要なのは、孝進様の心情の部分を聞くことです。

 
真のお父様に対する思いを歌った曲はたくさんありますが、
その中で一番多いのは「自己犠牲の精神」です。

自分をいかに犠牲にして、父のために、
より大きな目的のために供えるかという、
その姿勢がものすごく表れています。
そういう心情を聞くべきだと思います。

孝進様は私たちに、「私(孝進様)の心情を表す
音楽を作れ」とはおっしゃいませんでした。

利他主義、自己犠牲、「ために生きる」という
その一点に集中して作りなさいと言われました。

 
さらに、「あなた以上にあなたの隣にいる人が
善くなるように、音楽を作れ」とも言われました。

それは、あたかも「自分を愛するように
あなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22・39)
というイエス様の教えのようでした。

  
つまり、いかにして、音楽を通して
世界の個人主義に闘いを挑むか、いかにして
利他主義に満ちあふれた音楽を作るか、です。

利他主義というのは全ての人の心の中に、
良心の中に入っているものですから、
全ての人が理解できるのです。

そういう音楽を作ることで、
個人主義から利他主義へと
世の中の思想を変えていく、
そのためのコンテンツを作ることに
情熱を注がれたのです。

(『トゥデイズ・ワールド ジャパン』2015年9月号掲載)

文孝進様の孝情に学ぶ 6
証し 文孝進様の思い出
「真の父母様の解放のために身もだえされた生涯」4
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=23906
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


最近、天心苑徹夜精誠において、
孝進様の曲が歌われたり、
孝進様ご自身の歌声が流れます。

以前、聞いていた時よりも、
胸に響くような、とても名曲だな、
そんな風に感じさせられます。

先日は、二世のメンバーたちが、
孝進様の歌を披露していました。

しかも、バラードではなく、ロックです。
徹夜精誠に参加していたのが、
数百名の南米からきた二世たちということもあったのか、
とても盛り上がっておりました。

孝進様もその場におられ、
一緒に喜ばれ、鼓舞しておられるに違いない。。。
とても実感いたしました。


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2024年04月11日

世界は、神を悲しませる「放蕩息子と孤児」で満ちている 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1979年のみ言「私は善なる牧者」の続きです。

正しい信仰

それでは、悪とは何なのでしょうか? 

悪は、自分を中心としたものです。
自分を中心とした気掛かりと心配で
いっぱいの人は、悪なる人です。

これは、次元が違うみ言です。
なぜ悪だというのでしょうか? 

自分の気掛かりや心配でいっぱいの人は、
他人を恨む人であり、他人に手助けする力がないので、
悪の行動をするようになります。

けれども、神を心配する心や
自分の周囲の環境を心配する心は善です。

 
私たちは天の心配をどのようにするのでしょうか? 

無形の神に対して喜びをお返ししようとするならば、
私の生活圏内で、主体者である神が立てられた人を
喜ばせることが神を喜ばせることになります。

私たちはあまりにも無形の神、すなわち、
聖書にある神だけだと思いますが、
これは、神が願われる神観ではありませんし、
あまりにも私たちの生活と懸け離れた神観です。

神が願われる信仰生活は、私たちの生活圏内で
人間を神のように貴く思い、喜ばせることです。

これがまさしく神のために生きる生活なのです。
このような信仰こそ、神を
正しく知っている人の信仰なのです。

これがまさしく原理的に
アベルを経由することを知っている信仰なのです。

 
それでは、私の主体はだれなのでしょうか? 

自分の主体者のために生きる生活が信仰の生活です。

教会に通いながら祈祷し、
礼拝をささげることも重要ですけれども、
自分の実生活が礼拝になり、生活自体が
祈祷になるような生活をしなければなりません。

祈祷と言っても、伏して求めることだけではありません。
主体者を心配する心も祈祷であり、
主体者の心配を知ろうとする心も祈祷です。

そうすれば主体者の事情が分かるようになるのです。
これも啓示です。

 
これがまた、生活に適用されなければなりません。

正しい信仰は、人との関係の中で
実を結ばなければならないのです。

人間関係を離れた熱烈な信仰は独善になり、
悪の実を結ぶことになります。

このように人間関係を離れた信仰は問題になるのです。
この関係を失ってしまった心霊は
常に寂しく、悲しく、重苦しく、悲惨になります。

悲観するという言葉は、主体者に心配をかける
という言葉とも通じるのです。
愛される道がなくなるのです。

父母の懐を離れた放蕩息子は悲惨なのです。

聖書の中の放蕩息子の比喩は、
主体者を失ってしまった人、
自分が考え、自分が決定し、
自分の思いどおりに生きる人を比喩したのです。

家を離れたから放蕩息子だ
というのではありません。

他人の心配を一つもせず、自分の固執する心で
自分の主張だけをして、
自分の思いどおりにする人が放蕩息子です。

主体者に心配をかける人が放蕩息子なのです。

 
私たちは、父子の関係を結ぶ生活を
しなければなりません。

これは、私の生活圏内での
主体者との関係をいうのです。

先生は説教の中で、「私の願いは、
兄弟が和睦することであり、神様の願いも
兄弟が和睦することです」と語られました。

また、「原理を深く分かっていくならば、
神様の怨恨は、カインがアベルを殺害した事件です。
それが神様の心にあざをつくり、神様が
限りなく嘆息する事件となったのです」
と語られました。

兄が弟を打ち殺したので
父の心にあざができたという話です。

兄、弟がそれぞれどれだけ父母のために生き、
孝行を尽くしても、父母は、むしろ兄弟が
互いに父母に尽くすように生きることを願います。
それが父母の心です。

そのような兄弟をもった父母は、
どれほど心温まるでしょうか? 

父母として子供を見て心温まるのは、
まさしく弟が兄を父のように思い、
兄は父母と同じように弟を思うことです。

そのような子供をもったならば、
父母はどれほど心強く頼もしく思うでしょうか。

 
神の願いは兄弟間の和睦です。
私たちの生活圏内には信仰の兄弟がいます。
私たちは孤児ではありません。

孤児とは、父母と家族をもっていても
自分勝手にする人をいうのです。

自分勝手にするならば放蕩息子であり孤児です。

若い人たちの中で他人の言うことを聞くのを嫌がり、
自分勝手にしようとする人たちは
放蕩息子であり孤児たちです。

最近の世の中は、こういう人たちでいっぱいです。

1979年9月9日 韓国本部教会

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「私は善なる牧者」
再編集 文責:ten1ko2


「人間を神のように貴く思い、喜ばせること」
これが神様が願われる信仰生活、だといいます。

実は最近、個人霊界というか、
公的責任を歩んでいながらも、
なにか狭い意識に落ち込み、
沼のようにふさぎ込んでおりました。。。

ともに歩んでいる兄弟姉妹、
教会に来る食口たちは、神様なんだ!
そう思うと、意識が違ってきますね。

さらにいえば、私に関わる人すべてを
神様のように貴く思い、接していくならば、
どれだけ刺激的でしょうか。

視野を広げていかないといけない、
そのように感じさせていただきました。

ヨハネ先生、ありがとうございます。



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