2025年03月12日

私ばかりが苦労してる?! 私の苦しみの前に神の苦しみがあった 《金元弼先生のベストアンサー》



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私ばかり苦労している、そんな風に思うこともありますね。
「自分だけが苦労したと思ってはいけません」
というのですが──

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「私の苦しみの前に神の苦しみがある」です。

 
先生の心を理解したならば、
もう一つ考えなければならないことがあります。

例えば、私が問題のあるチームに、
六か月あるいは一年、一緒にいたとします。

その時、彼らを導くのに、「あっ、これは私の間違いだ」
「こんなふうにしよう」
「こうして私は導いた」といって
自分だけが苦労したと思ってはいけません。

私を通じて、いろいろと教育するために、
苦しまれた神がいるということを忘れてはなりません。

 
そしてまた、完全なリーダーではないのですから、
メンバーたちを傷つけたこともあるし、
メンバーが話を聞かないので、
自分も傷つけられたこともたくさんあるのです。

チーム・リーダーがよく導けなかったがゆえに、
あるいは牧会できなかったがゆえに、傷ついて、
教会から去ったメンバーもいます。
それによって、リーダーもたくさん学んだのです。

今まで問題のあるチームを引きずってきたのは、
自分ばかりでなく、背後で
神も苦しんでこられたということを考えるのです。

新しいリーダーが来た時に、彼らの中には
メンバーを傷つけたり、
苦しむ人も出てくるだろうと思います。

けれども、私が神の心でその人をよく指導できれば、
そのチームを通じての摂理が延長されるのではなく、
短縮されるだろうと考えるのです。

 
アダムが失敗したときに、アダムの代わりの者を、
すぐ立てることはできなかったのです。

アダムの身代わりを立てるのに、何年かかりましたか。
ノアを立てるために、一六〇〇年かかったのです。
ノアが失敗したときに、何年かかりましたか。

それと同じように、Aというリーダーを出したけれども、
チームをよくリードできなかったとすると、
代わりの人を立てるには、それくらい必要だということです。

皆さんは、最初の人ができないと、すぐ次の人に代えてしまいます。
そうしたらメンバーも変わったと思います。
形状的には変わっても、内的にはまだまだ変わっていません。

最初の人よりも、後に来た人がもっと上の立場に
立たない限りは、引き継ぎが
まだ終わっていないものと考えなければなりません。

 
ですから、リーダーの立場を受け継ぐためには、
新しい人はチームを率いることのできる基台を造らないといけません。

そこには最初のリーダーとメンバーとの
心情のかかわりがあります。

その次の人もよくできなくて、
代わりに新しい者が引き継いだとします。
そうしたら最初のリーダーが
どのように導いたかを知らなければなりません。

また、最初の人がテイク・ケアした以上の熱心さ、
心情をもたなければなりません。
それによって初めて引き継ぎが始まるのです。

最初によくできなかった者がいれば、
新しく来た者が蕩減をしなければいけません。
神が中心者を通じて何かを願うときに、神の目的を中心として見れば、
最初の人と次の人は同一の人なのです。

だから最初の人がよくできたもの、できなかったもの、
それらが全部次の人に引き継がれるのです。

 
アブラハムが失敗したゆえに、
イサクがいけにえに立たなければいけなかったのです。

み旨を中心として見れば、
アブラハム、イサク、ヤコブは同じ人です。

最初のアダムが堕落したがゆえに、
第二のアダムとして来られたイエス様は、
アダムが間違ったすべての蕩減条件を負わなければいけません。

第三のアダムとして来られる再臨主は、
第一のアダム、第二のアダムの
すべての蕩減を払わなければいけないということになります。

前の人の責任は前の人の責任で、
私には責任はないということはありません。
皆さんはそれをはっきりと分からないといけません。

平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「私の苦しみの前に神の苦しみがある」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2
 

再臨主として来られた
真の父母様の立場は、どれほど大変だったのか、
窺い知ることができるみ言だと思います。

神様ご自身も6000年間、
待ちに待った真の父母様でした。

今回のみ言は、リーダーとして立つ立場の人の
観点で語られている内容ではありますが、
私たちが中心者を見つめるとき、
また、一人ひとりが神氏族メシヤでありますから、
私たちにとっても必要なみ言であると思います。

「自分だけが苦労したと思ってはいけません」
その理由は、タイトルの中にすでに答えはあります。

やはり、題目にあるように、常に
「私の苦しみの前に神の苦しみがある」
このことを念頭に置いていきたいと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 09:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月11日

ダンベリーの父に届いた涙の祈り、Dr.神明誕生! UTS時代の神体験 《信仰エッセー》



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毎回感動を呼んだ神明(しんみょう)先生の
エッセイが本になっています。

『ドクター神明の信仰エッセー
生きた神様が働くとき』

神明先生が、統一神学校(UTS)で
教鞭をとることになるまでの
エピソード、「自分を無にしたとき、
お父様が干渉してくださった」
を紹介します。


私は1977年にUTS(ニューヨーク州ベリータウン)を卒業しました。
その後、他の大学でさらに神学の勉強を続け、
1984年の春、無事に神学博士号を取得しました。

その直後の6月末に、イーストガーデンに来るようにと
真のお父様からお呼びがかかったのです。

真のお父様はあと2、3週間後に
ダンベリー連邦刑務所(米国・コネティカット州)に
収監されることになっていて、
どちらかというとイーストガーデンの中は
緊張感が漂っているようでしたが、
お父様がわざわざ個人面接をしてくださったのです。

結論として、「これからUTSで教鞭を執るように」
と言ってくださいました。



 神明先生は、7月初めのUTSの卒業式の日に、
 当時の総長にあいさつしたのですが、
 あからさまな無視をされ、傷つきながらも
 静かにUTSを去ることにします。

 その際、誰もいないサッカーフィールドの中央で
 快晴の青空を見上げながら祈ったといいます。


「神様、UTSは決してこの私のものではありません。
あなたのものです。

ですから、誰か私よりもっと優れた人がいれば、
その人をここに呼んで、教えるようにしてください。

そしてUTSをりっぱな神学校にしてください。
UTSがりっぱになるのなら、
何も私はここで教えなくてもいいのです」

こう祈ると、涙があふれ出てきました。

そのときの切ない祈りが
時空を超えて神様と真のお父様に
伝わったことは後で知りました。


それから5か月たった12月のある日、
突然UTSから手紙が舞い込んできました。

これは後に総長から直接聞いたことですが、
総長がダンベリーのお父様にUTSの報告をしに行くたびに、
お父様は何度も語気を強めて
「神明はUTSで教えているのか」 と言われたとのことです。

それで、さすがの総長もこれ以上は
そのままにしておくことができず、
まだ私を雇っていないのに、
パートでもいいから雇ったという形にしたというのです。

それで、その翌月から、すなわち1985年1月から
正式にパートの講師の立場で、
UTSで教えることになりました。
まだフルタイムの助教授の立場は許されませんでした。


そんなある日、朝拝担当を頼まれました。

「カインの救い」 と題する説教を通して、
忍耐は必ず神様に通じるという内容を話したら、
参加していた数人のカイン的な学生が、
感動のあまり、すすり泣き始めたのです。

その渦は広がって、当時はほとんどの学生が
白人の米国人食口でしたが、
「ドクター・シンミョウの手にかかると
全ての悩みが解決される」という
うわさが流れ、次々に学生が相談しにきました。

私も、最も悩んでいる学生がどこにいるかと気になり、
神がかり的になって探し回り、
そのためには自然に足が動き出していました。

それを聞いた総長は驚いたらしく、
その月の終り頃には、私を
フルタイムの助教授に任命してくだいました。


最終的には、それから9年後の1994年に、
思いがけず私自身が真のお父様から
UTSの総長に任命されることになるのですが、

そのときお父様は、
「UTSは自分のものではないと祈った
その祈りによって自分を無にしたので、
総長に任命されたのだ」とおっしゃったのです。

そのように祈ったのは自分が全面的に
拒否されたからだったのですが、
その祈りは時空を超えて神様に通じ、
ダンベリーの真のお父様にも通じ、
お父様が干渉してくださることになったのだと思います。

今は霊界におられる真のお父様が地上の真のお母様と共に
神様の実体として立っていらっしゃるので、
そのような私たちの祈りと努力は
もっと敏感に感じられるに違いありません。

ならば、私たちのところに必ず来てくださり、
全ての問題を解決してくださるはずだと思います。

UTS時代の神体験:ドクター神明の信仰エッセー
「自分を無にしたとき、お父様が干渉してくださった」
神明忠昭
(世界家庭2019.6月号)より
中ほどの一部など割愛させていただきました。
ご了承ください。
再編集 文責:ten1ko


自分を無にする祈り、それがお父様の思いに通じたのですね。
お父様の霊的直観力に改めて感動するとともに、
私たちの精誠、真なる心情は、
天に通じるのだな、と思います。

そして、一番の試練の時に、
どのように受け止めていくのか、
これがターニングポイントなのだ、と思います。

私たちは天願うとおりにできないことがあります。
逆に天の願いだと思っても、そうならないこともあります。

そうだとしても、感謝して受け止め、
天を優先し、公的なものを優先していく、
それは、必ず天の父母様が見つめておられるのです。

しっかりと肝に銘じていきたいと思います。


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2025年03月10日

(証し)文孝進の1万曲プロジェクトに携わって 《聖和17th》



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ベルベディアのスタジオで曲作りをされる孝進様(2000年頃、米国・ニューヨーク)


3月17日の文孝進(ムン・ヒョウヂン)様(享年45)の
聖和17周年記念のシリーズより、
音楽を通して孝進様に侍った日本人男性
(36万双)の証し「真の父母様の解放のために
身もだえされた生涯」です。


マルチメディアによる真の父母様の解放を決意された

ベルベディアで音楽制作に没頭

 文孝進様は1980年代に入ってから、ニューヨークのマンハッタンセンターを拠点に、マルチメディア(文字、画像、映像、音楽など複数の情報を扱うメディア)を通して世界に善なる影響を与えようと決意されました。孝進様は「マルチメディアは人間の精神部分に最も強く影響を及ぼすものであり、その道で成功することが、真の父母様を解放することである」という信念をお持ちでした。

 1980年代後半からギターと作曲を始められ、最初に30曲を3ヶ月で作る条件を立てられ、食口(シック)の音楽家等とバンドを結成してファーストアルバム「再生」が作られました。さらに1990年代に入ると、世界中から音楽やアートに携わってきた食口や2世がマンハッタンセンターに集められました。音楽スタジオを3つ、ビデオスタジオを2つ造られ、孝進様はそのメンバーたちと共に、様々なマルチメディアのコンテンツを作っていかれました。

 当時、孝進様は日本のカープ所属のバンドだった「サンライズ・オーシャン」のアルバムをマンハッタンセンターで製作するよう指示され、バンドメンバーだった私は、キーボードプレイヤー・アレンジャーとして渡米することになりました。それが最初の渡米です。1991年のことです。

 私が行った頃は、ニューヨーカーホテルやマンハッタンセンターは、まだ廃墟のような状態のフロアも多く、壁の補修やペンキ塗りなどから出発させていただきました。日本人メンバーは私を入れて4人でした。
 当時、孝進様はマンハッタンセンターの責任者でしたが、1995年に辞任することになりました。同時にマンハッタンセンターでの私の音楽制作は終わり、それを機に日本に戻ったのです。

 孝進様はマルチメディア制作の拠点を失われたわけですが、音楽へのスピリットはいささかも衰えることはありませんでした。2年後の1997年、場所をベルベディア修練所の敷地内に移して、音楽制作を再開されたのです。

 孝進様のレコーディングエンジニアをしていたRさんから突然、日本にいる私に電話がかかってきたのは同年6月のことでした。「孝進様がまた音楽をされるぞ。おまえ、来る気、あるのか?」

 その頃、私は池袋の近くにアパートを借りてアルバイトをしながら生活していたのですが、「そうか、分かった。じゃあ行く」と即答しました。そしてアパートをたたみ、再びアメリカの地を踏んだのです。

 こうしてベルベディアで、孝進様が2008年に聖和されるまで、共に音楽制作に没頭する生活が始まりました。マンハッタンセンターを開拓したのと同じスピリットで音楽を作ろうと、ベルベディアの一角にこもったのです。


1万曲プロジェクト
 当初は、ドラマーやレコーディングエンジニア、何人かのサポートメンバーもいて、バンドという形が残っていました。それが2、3年たつうちに次々にメンバーが辞めていき、最後にバンドとして残ったのはキーボードの私とベースのTさん(日本人)の2人でした。

 その時のスケジュールはというと、大体、朝9時にはスタジオに集まり、夕方の5時か6時くらいまではずっとそこにいました。何をするかというと、ひたすら音楽を作る、それだけです。誰が聴くとか、いつ発表するとかいうことは一切関係なく──。
 私はメロディーと和音、アレンジ、ドラムからベースから、全てコンピューターで作ることができますので、キーボードに向かって、その作業に没頭しました。

 孝進様は、私たち一人一人も作曲することを望まれ、私たちも個人個人で音楽を作ってゆきました。歌詞まで作ることは期待していらっしゃらなかったので、とにかくメロディーを作ることに集中しました。作ったら、毎週日曜日に孝進様に聴いていただき様々な点で指導していただきました。

 1997年に私が渡米した頃には、100曲の曲作りが既に始まっていました。ところが100曲を作り終えると孝進様は、「ゼロをもう一つ足してみよう。どうしてやれないことがあろうか、やろう!」とおっしゃるのです。そこから1000曲、そして最終的には1万曲の作曲がスタートしたのです。

 2002、2003年あたりは1万曲プロジェクトの真っ最中でした。孝進様は私たちがそばにいようがいまいが、ひたすら作曲をされます。私たちがいればいたで、「せーの」で一緒に作るのです。

 どういうふうに作っていくかというと、まず孝進様が私たちに「次の曲は何をやりたい?」とお聞きになります。「ロックバラードはいかがですか?」「キーは何だ?」「Aマイナーでどうでしょう」「OK」という具合です。「ワン、トゥー、スリー、フォー」の掛け声で始まり、孝進様がメロディーを歌う、私たちがそれに合わせる。マシーンからドラムビートが出てきて、それを同時に録音するのです。リハーサルなしの一発録りです。この調子で、一日に100曲作ったこともあります。孝進様はとにかく、1万曲という数にこだわっておられました。

 タイトルは、最初の100曲くらいはありますが、その後はナンバーのみで、歌詞もありません。音楽の素材に近いもので、スケッチレベルです。将来は、それを基にリアレンジして、多くの曲が作られていくことでしょう。

トゥデイズ・ワールド ジャパン』2015年9月号掲載



真のお父様のみ言

良心心情啓発のための革命宣言

孝進が出す歌声は、深刻な時は
血を絞り出す音のようです。

それが和音となっています。
破裂しないまま和音となっているのです。
だから、相当な水準に到達したと言えます。

一万曲を作りました。
今やっていることも学んでやったのではありません。
自らが創り出したものは、忠臣の心情と
父母の心情と神様の心情と王の心情圏を追慕するときに、
足りないという悔い改めの宣言であり、
自体蕩減の宣言であり、さらには、
良心心情啓発のための革命宣言となったというのです。


(2005年3月29日、米国・イーストガーデン)

https://www.kogensha.jp/news_web/detail.php?id=28314
文孝進様の孝情に学ぶ 3
証し 文孝進様の思い出
「真の父母様の解放のために身もだえされた生涯」
再編集 文責:ten1ko2


孝進様の1万曲制作の証し、凄まじいですね。
ほとばしる情熱、決意というものを感じます。

1日100曲を作るなんて、
ある意味、霊的にならないと作れないと思います。

その心情は、まさにお父様が語られた
み言のごとくだと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 09:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | ご子女様・真のご家庭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする